Essay on SADA
2001.12.
橋本努
二〇〇一年四月、ニューヨークの自宅が火事で焼けてしまった。原因は、上に住む女性が使っていたナイト・ランプからの発火であるらしい。幸いにも消防員によって火事は早く止められたが、私たちの暮らす一階は、天井の一部が焼けて、しかも水浸しになってしまった。おかけで電気とガスが使用できなくなり、その日から妻と私は伝手を頼りに転々とする羽目になった。そして終いには、市役所が提供する緊急用のホテルに三週間も滞在することになった。その間に新しいアパートを探していたわけだが、しかしこの五年間で三倍に上昇した家賃のおかげで、なかなか良心的な家賃のアパートを見つけることができなかった。そのときのアパート探しでは、不動産との関係で厭なことをたくさん経験しすぎたように思う。徒労感もあり、結局、短期のあいだはとりあえずということで、ダウン・タウンのファッション街、ソーホーにある地下のアパートに暮らすことにした。
学校の教室が三つ分くらいあるこの広大なアパートは、インテリア・デザインが凝っていて、しかも高級なマテリアルを用いている。また、真ん中に大きな音楽スタジオがあって、リビング・ルームも十五畳くらいはある。家主のユタカさんは久保田利伸の下で働く好青年である。彼はアーティストたちの活動のためにこの隠れ家をつくったというのだから面白い。久保田利伸もまた、ときどきこのアパートへ寛ぎに来ていたようだが、私は会いそびれた。いずれにせよ妻と私はここで三か月間、サダさんというファッション・アーティストといっしょに暮らすことになった。岩本禎吉、通称サダさん。年齢は私と同じくらいで、ニューヨークにはもう十三年くらい住んでいる。その間に彼が成し遂げたキャリアは、最高に刺激的である。ソーホーとサダさんとの出会いから、私の滞在は期せずしてニューヨーク・アートの世界に触れることになった。
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福岡県北九州市小倉に生まれ育ったサダさんは、四人兄弟の次男で、自ら不良と称する威勢のいい少年だった。はじめてファッションに触れたのは高校時代、親戚のおじさんが経営していた「ミルキーボーイ」というフランチャイズの洋服屋で、アルバイトをはじめたことだ。店長のおじさんはジョン・レノンに似ていて、ひげを生やしたヒッピー、いかにも怪しい感じのする人であったという。サダさんはこのおじさんから、ビートルズやロック、そして何よりも、かっこよく着飾ることを学んだ。
高校卒業後、東京の文化服装学院に入学。同時にその才能が認められて、著名なデザイナー石川ヨシオの下でアシスタント・デザイナーを務めるようになる。石川ヨシオは当時32歳、装苑賞を受賞したカリスマ的なデザイナーであり、文化服装学院の講師を兼任していた。神宮前に住んでいたサダさんは、ふだんは青山にある石川のアトリエまで自転車で通っていた。その仕事が認められて、結局ほとんど授業に出なくても専門学校を卒業することができたという。青山ではまた、キース・へリングの店に行ったことがニューヨークに来るきっかけとなった。キース・へリングは当時、一年間だけ青山に店を開いていたが、その後ニューヨークに戻り、若くしてエイズに倒れ亡くなった芸術家である。
日本社会がバブル経済に舞いあがる一九八九年、サダさんは日本のファッション・シーンにはもはや未来がないと見切り、ニューヨークにこそ未来があると直感した。ヒップ・ホップ音楽の台頭や地下鉄の落書きなどはとても刺激的で、何か新しいことを予感させてくれる。すでに彼の貯蓄は二〇〇万円ほどあった。これを軍資金にして、いよいよニューヨークへ赴くことになる。
最初は観光ビザで渡米したが、結局有効期限が切れた後も違法で滞在する。所持していた軍資金の二〇〇万円は、半年間もすれば底を尽きてしまった。そして「これでは食っていけない」という段になってから、日本料理のレストランでウェイターをはじめることにした。
レストランではしかし苦労した。「あいつは使えない、生意気だ」などと言われたりもした。サダさんはそもそも、ウェイターのバイトなど軽蔑しているわけであり、日本に戻ればデザイナーとして自立できるだけの自信があった。そのプライドが邪魔をして、最初はなかなか単純労働に適応できないのである。しかしニューヨークには夢を持ってきている人たちが集まり、アルバイトをしながら夢を実現するために努力している。そういう人たちに多く出会うと、自然にバイトも割り切れるようになる。彼は個性的で、なによりも存在感がある。ビートたけしのような機転の早いユーモラスな会話力があって、しかも根っからの人情派だ。つっぱって生きてはいるが、人に好かれるタイプである。実際、いろいろな人を助け、そして助けられてきた。ニューヨークでは、いろいろな人たちと刺激的な交流を深めていった。
それから三年後の一九九二年、レストランが場所を変えるという段になったときにバイトを止めた。その三年間は、週六日間、無遅刻無欠勤で働いた。節約に節約を重ねて約五万ドルを貯めた。日本円にして約六五〇万円。二五歳の青年にしてみれば、すでに夢を実現するための十分な資金を蓄えていた。何かきっかけさえ掴めば、いつでも夢の実現へ向けて動き出すことができる状態だった。そしてその年、サダさんはある女性と運命的な出会いをする。
ニューヨークのイースト・ビレッジにある靴屋で、愛用のドクター・マーチンを買おうとしていたときのことである。ある女性が「岩本くんですか」と声をかけてきた。林裕子さん、文化服装学院時代のサダさんの同級生。林さんもまた当時、デザイナーになることを夢見てニューヨークに暮らしていた。彼女は長崎出身、その出身地はサダさんの実家のすぐ近くであったことから、二人は何か運命的なものを感じる。文化服装学院に在学していた当時はあまり親しくはなかったが、ニューヨークの靴屋で偶然出会って以来、二人は意気投合する。林さんは当時別の男性と付き合っていたものの、その三か月後には別れ、サダさんと暮らし始める。そして二人で新しいブランドを作って服を売ろう、ということになる。実際、林さんはミシンを持っていて、裁縫が上手だった。そしてサダさんは、衣装デザインのアイディアをいっぱい持っていた。そこで二人は協力して、とにかく高級な「サダ・ブランド」を作ろうと考えた。何よりもまずスーツである。一着八〇〇ドル(約一〇万円)もするスーツをデザインして、二人はさっそく売り込みを開始した。
サダさんと林さんの仕事は、まずスーツをデザインしてそのサンプルを作り、そのサンプルを持って工場に行く。そして工場では一定の料金を支払って、五〇着のスーツを作ってもらう。そして今度はそれを持って、マンハッタンのいろいろな店に売り込みに行くわけだ。それぞれの店にスーツを置いてもらうことは意外と簡単であった。ここまでは大成功であった。そしてそれが売れれば、売り上げの五〇%を利益として回収することができた。(残りの五〇%は店の収益となる。これがニューヨークで服を売る際のルールである。)しかし問題は、なかなか服が売れないということだった。また売れたとしても、売上金を店がなかなか支払ってくれない。しかも支払いを待たされる。売上金の催促もなかなか大変な仕事であった。
他方ではこの時期に、二人はハネムーン気分でアメリカ中をたくさん旅行したりもした。なるほど仕事の成果は全体としてみれば赤字であったが、まだ資金は十分にあり、楽観的でいられた。しかもサダさんは自分のデザインに自信を持っていた。すでにバイト時代の三年間、サダさんはとにかく美術館に足を運んで、自らの感受性を意識的に鍛えてきた。ニューヨークでは多くの美術館が、無料で入館できる日を設けている。例えば金曜日の夜六時から九時までは無料の美術館がいくつかある。こうした時間帯を利用して、若い芸術家たちは多くのすぐれた美術作品に触れることができる。サダさんがニューヨークで得たものは、最高の芸術作品を直接見るという刺激であった。ファッション雑誌など捲らない。独創的になるためには、雑誌を眺めていてはいけない。それよりもサダさんは、現代美術、とりわけ、モンドリアン、リヒテンシュタイン、アンディ・ウォーホール、ポロック、ローゼンクエスト、バスキアといった芸術家たちの作品に触れることで、自らの芸術的感性を磨いていった。とりわけモンドリアンからは大きな影響を受けたという。このように、デザイナーとしてサダさんが多くのアイディアを生み出していくための源泉は、ニューヨークにある芸術作品を徹底的に見て回って、身体で摂取していたことにあった。
一九九四年、林さんとサダ・ブランドを売り出してから二年後のこと、二人は売れないのになぜ作りつづけるのか、という問題に直面していた。そして二人の関係にも危機が訪れていた。サダさんは結局、林さんとの活動を止めて、新たなプロジェクトに乗り出すことに決意した。人脈はいろいろあった。新しいプロジェクトは、三人で自分たちの洋服店をファッションの中心街ソーホーに開くという大計画である。マネージャーの女性、デザイナーのしょうたろうさん、そしてサダさんの三人。最初に一人あたり一万五千ドル(約20万円)の資金を出しあって、ソーホーにある店舗を借りた。毎月のレントは二千五百ドル(約30万円)で、五年間の契約である。コストを削減するために、店の内装はすべて自分たちで手がけた。店の名前は「トラ(TRA)」。TRAとは “ART” を逆さまにしたロゴで、ARTに一つひねりを入れたものだ。この店で、しょうたろうさんは「ツウィステッド(TWISTED)」というブランド名を用い、サダさんは「サダ・リミックス・コレクション(SADA LIMIX COLLECTION NYC)」というブランド名を用いた。二人は競って商品を店に並べた。
そしてこの時期、サダさんはすぐれて独創的なデザインを確立する。自らのデザインの中で最もオリジナルなスタイルであると誇る、スパイダー・ワークの成立である。(写真を参照。)リサイクルの発想から得た切れ端のパッチワークで、モンドリアンの絵に流動的な動きを与えたような、シュールでセンス抜群のアート・ワークである。
当時、ソーホーにはまだ洋服工場がたくさんあった。例えばエンパイアというスポーツ・ウェアの工場があり、その近くのごみ置き場には夜になると、洋服の切れ端の入ったビニール袋が山積みにされる。サダさんは深夜に、その袋の中から使えそうな生地を拾うために、ゴミ漁りを繰り返していた。ある晩、警備員の人に引きとめられたことがある。「おい、そこで何をやっているんだ!」サダさんはそのとき、自分の仕事について丁寧に説明した。何もゴミを散らかしに来ているわけではない。ゴミ袋はきちんと閉めて元の状態に戻す。それくらいのエチケットは守る。エチケットを守ってさえいれば、ゴミの中からスポーツ・ウェアの良質な切れ端を、勝手に取ってかまわないだろう。この捨てられた生地に生命を与えるのは、芸術家の仕事である。サダさんは切れ端を集めて、それをパッチワークにして服を作る。これが彼のデザイナーとしての本領を発揮させることになった。リサイクル芸術という思想の表現でもあった。
ソーホーのワット・ストリートに出したこの店は、最初の一年目はまったく苦労したが、しかし二年目にはブレイクした。売れに売れた。ファッション雑誌からの取材が多くなった。もっとも、ファッション誌に店が紹介されたからといって売れるわけではない。ソーホーにはすでに、多くの人々が新しいファッションを求めて来るという人の流れがある。その人たちに実際に買ってもらうことが重要なのであり、それはファッション雑誌の宣伝効果とは別の問題であった。開店して二年目には実際、雑誌の効果とは別に、いろいろな人たちがサダさんの店に買いつけに来た。あるとき、レニー・グラヴィッツというバンドのスタイリストがサダさんのTシャツを三〇枚も買いあさって帰った。そしてこのバンドは、日本ツアーでサダさんのTシャツを着ていたという。またあるとき、フランスのマダムが、店のウィンドウに飾られている非売のワンピースを買いたいと申し出たことがある。とても気に入ったから一着八〇〇ドルで売ってほしいというので、うれしくなって売ってしまった。古着から作ったパッチワークのワンピース、元値はゼロの品が、約一〇万円で売れたのである。しかもすべてはサダさんのデザイン料に対する報酬だ。
店は八畳程度の小さな床面積ではあったが、その地下を裁縫の作業場として利用することができた。三人はほとんど毎日のように、地下の作業場で一点ものの洋服を作った。洋服の生産は工場に依頼しないで、自分たちですべてを生産した。リース契約が終わるまでの五年間を黒字で経営することに成功した。ところがその最後の年に、三人はこの店を続けるかどうかで迷うことになった。というのも、アメリカ経済が急激に好況になったおかげで、店のリースはこれまでの二倍の五千ドルに上がるというのだ。これでははっきり言って、利益を上げることはできない。結局、しょうたろうさんは日本に帰ることを決心し、サダさんはそのままニューヨークに残って、得意先の岡山の店に、サダ・ブランドの服を直接下ろすことにした。
ところでこの成功した五年間のあいだに、サダさんはデザイナーとしてだけでなく、ミュージシャンとしても、またショート・フィルムの俳優としても活躍していた。一九九六年から一九九七年にかけて、ニューヨークでは「ミライ(MIRAI)」という日本人のバンドがライブ活動をしていた。日本の一九六〇年代のテレビ主題歌などを混ぜた、リズムセクションの強力なビックバンドで、派手なパフォーマンス、しかしどことなくレトロな感じのする音楽である。米米クラブのようなエンターテイメント性と、ドライブのかかった真剣な音楽がまざって、独特のサウンドを生み出していた。私もそのCDを聴かせてもらったが、とくに「サスケ」という曲が印象に残った。「サスケー!」と叫びながらレトロな感覚に迷い込んでいくという、何とも説明しがたい曲である。サダさんはこのバンドにトランペッターとして、また衣装のデザイナーとして参加した。小学校の鼓笛隊のときにマスターしたトランペットは、このとき大いに役立った。
「ミライ」の活動は、毎週一回、いろいろなライブ・ハウスで演奏することだった。約二年間つづいた。しかしメンバーたちは、ライブだけで食っていけるわけではない。ニューヨークという都市は、自分たちの音楽を試す場所であって、ライブによって儲けが出るところではない。だからメンバーたちはみな、アルバイトをしながらライブ活動をしなければならない。生活は楽ではなかった。
しかしやがてこのバンドは、ニューヨークで有名になった。サダさんによる衣装のデザインが評価されたのであろう、大手衣料会社のGAPは、バンドのメンバー全員をその宣伝用ポスターに採用した。これはミライにとっても大きな宣伝効果となり、日本でデビューするという話がもち込まれた。そして実際、ミライは日本でデビューすることに決めた。一九九九年十一月、ミライはバンド名をそのままタイトルにして、HASIN MUSICからCDをリリースした。日本のインディーズとして、国内で発売されたようである。
サダさんは、ニューヨークに残った。まさかビッグバンドのトランペットで食っていけるわけがない。自分の本業はデザイナーであるから、ニューヨークに残るのは当然である。またミライのサイド・ヴォーカルであったサダさんの彼女もまたバンドを辞め、フランスに新天地を求めて去っていったという。
音楽活動のほか、サダさんはこの時期に、ショート・フィルムの主役を演じたりもしている。「バニラ・マニア(Vanilla Mania)」というニューヨーク在住日本人たちのアート・グループがあって、サダさんはこのグループのなかで活躍していた。ショート・フィルムはこれまでに、五本収録した。退廃的かつ美的な映像と知的でリリックなビート・サウンドが印象的である。サダさんは、とても絵になる役者だ。やくざ映画に登場するビートたけしのような、しかしもっとかっこよく気障で、歩くだけで圧倒的な存在感をもっている。二〇〇二年春の作品を私はベッドフォードの倉庫街で上映されたときに見に行ったが、どうやらニューヨークの日本人アーティスト集団の中で、サダさんは本当にヒーローなのであった。数本のショート・フィルムが上映されたこのパーティでは、サダさん主演の作品に会場が沸いた。大うけだった。サダさんが登場すると、会場はその存在感に「おーっ」と唸った。一九六〇年代のムーディな音楽をバックに夜の地下鉄に乗り込むサダさんの姿を見ると、会場は、都市の寂しくて感傷的な雰囲気の中に吸い込まれていくようだった。
その存在感はいったいどこから生まれるのであろうか。サダさんはとにかく芸術的なものに対して貪欲であり、とりわけ時代遅れの大衆芸術にすぐれた感受性を持っている。例えば、フランスの一九五〇-六〇年代の歌謡曲(とくにセルゲイ)、日本の演歌や昔の歌謡曲、ブラジルの古いボサノバ、リミックスされたハウス系のサウンド、こうしたものがサダさんにとってかっこいいアイテムになっていた。またサダさんは、ブルースリーや矢沢永吉のファンでもあり、気障でストイックな人間にあこがれていた。「いちばん貧しいことは、ものを知らないことである。」「こだわらないことにこだわる。」この二つのモットーが、サダさんの芸術的感性を表している。彼はソーホーの店を閉じて以降、なるべく時間の余裕を作って、さまざまな芸術を深く享受していた。リビングにある彼のCDやビデオのコレクションもすぐれていた。私はとりわけ、サダさんから古い日本映画のビデオを借りてよく見た。ニューヨークで山田洋次監督の映画を見ることになるとは夢にも思わなかったが、何ともいえない奇妙な体験であった。
二〇〇一年九月に起きたテロ事件以降、サダさんはニューヨークをそろそろ脱出しようと考え始めている。なるほど、ニューヨークは経済の好況の結果、レントが三倍から四倍に跳ね上がり、これまでのような小さな資本で若い芸術家たちが何か始められるという環境ではなくなってしまった。ソーホーでは、大手のファッション会社しか生き残れなくなり、世界のどこでも入手できるものしか売られなくなった。若い芸術家たちは家賃が払えず、ニューヨークから逃げ始めている。そこにテロ事件が起きて、ニューヨークにおける人々のファッションは一挙に保守化してしまったようだ。こうした状況では、ファッションのダイナミズムなど生まれようもない。好況は芸術家たちを排除し、テロ事件はファッションを保守化させた。今面白いのはむしろ、長期不況下の東京ではないだろうか。サダさんは、そろそろニューヨーク滞在を終えて、日本に活躍の場を移そうと考えている。
(PS:これまでにサダさんは7,000着くらいの服を作ってきたが、そのほとんどはデータに残っていない。私がいいなと思った服も、いまでは売られてしまって残っていない。ただ、いくつかの写真が残っていて、それを私はスキャンさせてもらった。橋本努のホームページにおけるPhoto「SADA Remix
Collection」を参照されたい。)